私が「イエス・キリスト」という名前を使わなくなった理由
それは、この資料をみたからだ。
それは、この資料をみたからだ。
これは、紀元後178年、セルサスの命令で集められた異教徒とクリスチャンの討論の様子が記録されている。
“私たちはそうは思わないが、クリスチャン達は彼らの先生(イホシュア)の名前を発音することによって、地球や空気の力に対しても対抗できると考えている。また、クリスチャン達は名前の意味を守るためにとてもうるさい。つまり、クリスチャン達はそれを正確に発音しないのであればそれは、無意味であると述べている。そしてそれは、ギリシャ語でもラテン語でもない。つまり未開の言語で言っているに違いない。
シリー(クリスチャン)はゼウスの像やアポロの像、またそのほかの像の横に立ってこう叫んだ。「見なさい。私がこれらの像に汚しことを言い、この像を打ったとしても、それは私には何の害ももたらさない。なぜなら、私はクリスチャンだからである。」”
(出典:Celsus on the True Doctrine, A Discourse Against the Christians, R. Joseph Hoffman (page118))
これはローマ人が初代クリスチャンについて、ちょっと馬鹿にした語調で記述したもの。
現在の教会のもとを作ったのは、ミトラ教徒のコンスタンティヌス一世
紀元後325年ごろのこと。
ちなみに、彼がクリスチャンと呼ばれる人々を公認したとき40歳くらいだったが、この20年ほど後に亡くなる直前まで、ミトラ教の最高司祭であり続けた。12/25ミトラ教の冬至を「キリストの降誕祭」にしたのも彼だ。太陽崇拝のミトラ教の礼拝日である「日曜日」をキリスト教の礼拝日にしたのも彼だ。
紀元後325年ごろのこと。
ちなみに、彼がクリスチャンと呼ばれる人々を公認したとき40歳くらいだったが、この20年ほど後に亡くなる直前まで、ミトラ教の最高司祭であり続けた。12/25ミトラ教の冬至を「キリストの降誕祭」にしたのも彼だ。太陽崇拝のミトラ教の礼拝日である「日曜日」をキリスト教の礼拝日にしたのも彼だ。
イエスという名前の元になったのは、ジェスー ラテン語
そのまたもとになったのは、ギリシャ語 YESOUS
みな、本来救い主の名前が「ヨシュア記」のヨシュアと同じであることは知っている。ヘブル語でイホシュア。実は「ホ」の部分は喉の奥のほうで発音するとても難しい発音だ。
みな、イエスが、このイホシュアの翻訳版だと思っている。パオロがわかり安い翻訳したのだろう…と
もしそうなら、イホシュアが亡くなってから、またローマ宣教の立役者であるパオロが亡くなってからも100年も経っているのに、ジェスー、あるいはイエソウスがクリスチャンの間で定着おらず、クリスチャンたちが、公文書で批判されるほどに、救い主の名前にこだわるものだろうか。
そのまたもとになったのは、ギリシャ語 YESOUS
みな、本来救い主の名前が「ヨシュア記」のヨシュアと同じであることは知っている。ヘブル語でイホシュア。実は「ホ」の部分は喉の奥のほうで発音するとても難しい発音だ。
みな、イエスが、このイホシュアの翻訳版だと思っている。パオロがわかり安い翻訳したのだろう…と
もしそうなら、イホシュアが亡くなってから、またローマ宣教の立役者であるパオロが亡くなってからも100年も経っているのに、ジェスー、あるいはイエソウスがクリスチャンの間で定着おらず、クリスチャンたちが、公文書で批判されるほどに、救い主の名前にこだわるものだろうか。
イエスが単なるイホシュアの短縮でないし
名前に大きなこだわりがあるユダヤ人だからこそ、許せない何かがあったのではないか
そう思った。
そして私はその答えをタルムードにみつけた。
そして二度と イエス などという名前で
名前に大きなこだわりがあるユダヤ人だからこそ、許せない何かがあったのではないか
そう思った。
そして私はその答えをタルムードにみつけた。
そして二度と イエス などという名前で
メシアを呼べなくなった
ちなみに、神は聖書の中でいろんな形で預言なさる。
モーセ五書のタイトルは、最初に使われている言葉がタイトルになり
それらを並べると「初めに荒野で名を呼んだのは、ことば」になる。
モーセ五書のタイトルは、最初に使われている言葉がタイトルになり
それらを並べると「初めに荒野で名を呼んだのは、ことば」になる。
こういう暗号めいた預言は意外とたくさん聖書にはあるものだ。
私はある夜声を聞いた
「私の名前はイエスなどではない。私の名前を探しなさい。」
そこでなぜか、バビロニア・タルムードを調べるように導かれた。
そしてバビロニア・タルムードに
「Yeshu」イエスという名前が何度か出て来るのを見た。
驚くべき事だった。
タルムードのSanhedrin43a を見た時
私は床に崩れ落ちて、泣きながらメシアにお詫びした。
私達の罪のために十字架にかかって死なれた
恐ろしく不名誉で、孤独な痛みと死を受けられた方に
このような名前をつけて 平然と声高らかに
呼んでいたことを泣きながら悔い改めた。
「私の名前はイエスなどではない。私の名前を探しなさい。」
そこでなぜか、バビロニア・タルムードを調べるように導かれた。
そしてバビロニア・タルムードに
「Yeshu」イエスという名前が何度か出て来るのを見た。
驚くべき事だった。
タルムードのSanhedrin43a を見た時
私は床に崩れ落ちて、泣きながらメシアにお詫びした。
私達の罪のために十字架にかかって死なれた
恐ろしく不名誉で、孤独な痛みと死を受けられた方に
このような名前をつけて 平然と声高らかに
呼んでいたことを泣きながら悔い改めた。
Sanhedrin 43aには
Yeshuという名前がどういう意味なのかが書いてあった。
Yeshuという名前がどういう意味なのかが書いてあった。
聖書にも、実は同じことが書いてある。
この名前は詩篇109 :13
Yemach Shemo Wezichro
ヘブル語のこの三語の頭文字をあわせると
Yeshw になる 音表的に書くとYeshu イエスだ
詩篇109:13は呪いの言葉
その子孫が断ち切られ、次の世代には彼らの名が消し去れられるように
その子孫が断ち切られ、次の世代には彼らの名が消し去れられるように
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