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2018年12月2日日曜日

ハヌカに思うメシアの民 4 最終回

宮を清める

前回までの記事
「宮を汚す」というのがどういうことなのかを書きました。
今回はいよいよ、「宮を清める」というのがどういうことなのか
書きたいと思います。

イホシュアの宮きよめ

救い主イホシュア(イエス・キリストの本名)の「宮きよめ」と呼ばれる
ところがあります。
マタイ21:12~13に書かれているエピソードです。
これは、ハヌカの時期ではありません。
しかし、このエピソードを人々は特に「宮きよめ」と呼んでいます。
そこに描かれているイホシュアの姿は、柔和とは程遠く
怒り狂いながら、ムチをふるい
神殿に建てられたくだらない屋台(生贄用の動物を売っていた)や
両替商をひっくり返し、憤怒をあらわにしています。
マカバイも同じでした。
憤怒とともに、剣をふるい徹底して、エピファネスが汚したものを、破壊し
「神殿」にふさわしくないものを排除したのです。

神殿とは

宗教というものに対し、罪に対し、
徹底して断固たる態度をとった、イホシュアとマカバイ。
しかし、これは、例えば、仏像を破壊せよとか、仏壇を捨てろ、という意味ではありません。
イホシュアは人としては「ユダヤ教徒」でした。
彼が破壊したのは、しかしながら、ユダヤ教という宗教活動の「実情」だったのです。
この破壊が象徴するのは、キリスト教を含むあらゆる宗教活動の排除です。
しかも、物理的な破壊行為を促しているのではありません。
前の記事でも述べましたが、聖書において
歴史はらせん状に関連しながら連続していくのです。
「神殿」とは、私たち、神の民個人のことです。
私たちの魂こそが、まず神の第一神殿であり、
私たちの心こそが、第二神殿
そして、私たちの体が第三神殿です。
このことと黙示録との関係についてはいずれまた書きましょう。

神が「神殿」を受け取られるということ・・・

しかし、ハヌカとは、神殿の中にあるあらゆる「偶像」「宗教性」そして
罪に対して、憤怒で対処し、破壊しそうやって清められた「神殿」を
もう一度、神にお捧げする、そんな祭です。
このクリスチャンのヘレニズムによって、勝手に「無価値」とされたハヌカの時
神は現代に生きる私たちに課題を投げかけているのです。
私たちに、ハヌカは必要ないですか?
いいえ、神が直接お命じになっていないにしても、ハヌカの祭に託された預言は
生きています。
私たちは私たちという「神殿」を清めて、神にささげなくてはなりません。
神は、必ず受け取ってくださいます。
そうした神殿こそが、御国の基礎なんです。
ささげられた神殿を神は豊かに用いて下さり
私たちを通してご栄光を示してくださるのです。

ハヌカに思うメシアの民 3



ハヌカに思うメシアの民 3

前の記事 ハヌカに思うメシアの民 2

エピファネスの「神殿汚し」

ざっと、まとめると7つの「神殿汚し」行為です

  1. 安息日を汚す
  2. 主の例祭と聖なる日を汚す
  3. ギリシャの偶像(ゼウス)を祭壇において拝ませた
  4. 祭壇に豚の血をささげた
  5. 聖書で禁じている不浄な食べ物を食べさせた。
  6. 割礼を汚した。
  7. トーラー(律法)の学びを禁じた

今もなお・・・

さて、エピファネスの暴挙は過去の話なのでしょうか?
いいえ。
実は、今もなお、この七つの汚れは「神殿」で起こっています。
汚すとは、ヘレニズム的基準で判断して(自分たちで決められる)
それが価値のないものであるかのように、扱う
あるいは、別の意味を持たせることです。
聖書の歴史はらせん状に連なり、繰り返されるのです。

1.安息日を汚す
 キリスト教会で安息日を守っているところは、ほとんどありません。
 太陽を崇める異教の皇帝が定めた日曜日(太陽の曜日)を「安息日」と呼んで
 礼拝しています。
2.主の例祭と聖なる日を汚す
 主の例祭のほとんどが汚されています。
  スッコート(仮庵の祭)は、本当のクリスマスです。
  しかし、キリスト教会では無視されています。
  ペサハ(過ぎ越しの祭)は、復活祭です。
  確かに主の復活を祝うのは良いことですし、それを復活祭と呼ぶのは
  メシアの民として道理だと思います。
  しかし、ほとんどの教会がこの祭を「イースター」と呼びます。
  これも、太陽の神を崇める異教の皇帝が勝手に決めたルールに
  1700年もたった今でも従い続けているのです。
3.ギリシャの偶像を祭壇に置いて拝ませる
 実際に「ゼウス」の偶像が祭壇という物理的調度品に
 飾られているというのもあります。
 ああ、「カトリックの十字架のイエス像か」と思い、
 自分はプロテスタントだから大丈夫とも、思うかもしれませんね。
 祭壇とは、神とのコミュニケーションスペースです。
 そのうえに「ゼウス」を飾っているのは、プロテスタントも同じです。
 神は日本人にこのことを証しする役目をお与えになっています。
 日本のキリスト教はバスク人(スペイン人)宣教師フランシスコ・ザビエルによって
 1549年に伝えられた異国の宗教とされています。
 (実際には違います。)
 救い主の名前は、イホシュアなのに、イェスーに変えられました。
 ローマに伝わったこの呪われし名前は
 スペイン語でゼスーと発音されます。
 もうお分かりですね。
 日本人なら、16世紀の日本人がキリストを「ゼウス様」と呼んでいたことを
 知っているはずです。
 細川ガラシャもゼウス様と呼んでいました。
 「キリスト・ゼウス」という記述は、紙としてたくさん残っています。
 イエス・キリストとは、救い主イホシュア・ハマシアハを汚す偶像であり
 今でもエピファネスがしたことが繰り返されているということなのです。
4.祭壇に豚の血をささげる
 本来ささげられるべき血は、子羊の血です。
 子羊はイホシュア・ハマシアハです。
 豚とは、異教の象徴です。
 イエス・キリストという偶像の血によって、キリスト教会は
 聖餐を行い続けています。
5.聖書で禁じられている食べ物を食べさせた
 食べ物とは、御言のことです。
 ほとんどの牧師が平気で「ヘブライ語はわからない」といいます。
 ヘブライ語の背景や意味は全く無視するのに
 必死で英語の聖書や英語の宗教資料を大切にします。
 御言をヘブライ語で読む努力は一切しないのに、
 説教の度に英語ではどう書かれているかを頻繁にチェックします。
6.割礼を汚す
 割礼をさせない・・・ということです。
 必要ない、と教えたり。勝手に自分たちの都合で変えるということです。
 私たちメシアの民には、割礼の代わりに「洗礼」が与えられました。
 しかし、今のキリスト教会を見回せば、ほとんどが「滴礼」です。
 おでこに、チョンとお水を塗ればそれでいいと、自分たちの理屈で決定しています。
 また、洗礼は牧師や神父じゃないとできないという嘘を蔓延させました。
 (聖書にはそんなこと一言も書いていません。)
 聖霊降臨についても過小評価しています。なくっていいものなのです。
 ほとんどの牧師たちが、聖霊の内住をうけていないので、
 必要なもの・・・であると、困るんです。
 
7.トーラーの学びを禁じた
 トーラーとは律法のことです。
 キリストは律法主義者を「災い」と呼び、呪われました。
 しかし、律法については、こうおっしゃいました。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」(マタイ5:17) 

 律法を満たすことは困難ですが、イホシュアのおかげで、
 私たちも聖霊のお導によって、律法の真意を知り、達成を目指すことができるのです。
 しかし、キリスト教会は「安息日を守りなさい」のところで、跪くことに失敗し
 躓いてしまっていますので、「私たちは新約の民だから、律法はどうでもいい。」
 律法が悪いもので、必要のないものであるかのように思わせています。
 安息日の守り方、過ごし方を、
 安息日の主であるイホシュアがはっきりお示しになったのにも関わらず
 安息日を無視して、異教の皇帝のルールにしたがっています。

見事に、7つすべてが今でも起こっていることがこれでわかると思います。
プロテスタントがマカバイ書を排除したのも、無理はありません。
都合が悪いのですから。

ハヌカに思うメシアの民 1
ハヌカに思うメシアの民 2
ハヌカに思うメシアの民 4

ハヌカに思うメシアの民 2

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マカバイ書

ハヌカの起源は聖書の「マカバイ書」に記されています。
実は、このマカバイ書、プロテスタントのクリスチャンはあまり読まないので、ほとんどの訳本で割愛されている文書です。
フランシスコ会訳とバルバロ訳でしか、マカバイ書を含んでいません。
マカバイとは人の名前です。
紀元前169年 セレウコス朝シリアの王アンティオコス4世・エピファネスにエルサレムが占領され、神殿が汚されるという事件が起きます。
この二年後、紀元前167年、ユダ・マカバイが神殿を回復するのですが、この神殿の回復を祝うのが、宮きよめ祭です。

神殿を汚す。神殿を回復する。
それでは、「神殿を汚す」ってどういうことなんでしょう?
また、「神殿を回復する」とは・・・一体なんのことなんでしょうか?
結論から言いますが、ハヌカを無視するなど、もってのほかです!
マカバイ書を読まないで、メシアの民を名乗るなど「おとといきやがれ」です。

まぁ、いいでしょう。

一言でいえば、このマカバイ戦争は
ヘレニズムとヘブライズムの戦争です。

<改めましてヘレニズム>
ヘレニズムとは、ギリシャ主義ということです。
アンティオコス4世はセレウコス朝の子孫です。
つまり、アレクサンダー大王の部下だったセレウコスの子孫でギリシャ人なのです。
ヘレニズムには・・・・
 たくさんの神様がいます。
 神様にそれぞれ担当分野があります。
  豊作の神 太陽の神 海の神
 全知全能の神とされるゼウスはいますが、実は制限付きの全知全能なのです。
 人間は、自分の都合に合わせ、適切なご利益を下さる神様を選び拝めます。
 つまり・・・人間に決定権と選択権があるのです。
 自分の力で何でも決められて
 自分の力で何でも乗り越えられるはず。
 そう信じるのがヘレニズムです。
ちなみに、「エピファネス」とは、現人神(あらひとがみ)という意味です。
神と同じ力を持った人間です。
そういう人間力を重視するのがヘレニズムで(努力すれば、なんでもできる)
神様は人間の願望によって作られた偶像にすぎません。

ちなみに、ドイツの哲学者ルートヴィッヒ・アンドレアス・フォイエルバッハは「そもそも神とは、人間の願望が投影されたもの。映し出されたもの。」だと言います。ちなみに、この「投影物」という考え方はギリシャの哲学者プラトンが言った「イデア論」からくる考え方です。

一方
<ヘブライズムというのは・・・>
かいつまんで言うと、ヘブライ人、つまりユダヤ人の考え方のことです。
 神は唯一無二 ヤッウェの神だけ
 神の全知全能性にまったく制限がない。
 すべてをお造りになった、創造主たる神
 人間は、神の御計画によって動かされている。
 つまり、神に絶対的な決定権があり
 人間は神がいなければ生きていけない弱い存在(バサール)である。
 神の力なしに、人間は何もできない。
 そう考えるのが、ヘブライズムです。
ヘブライズムにおいて、人間はあくまでも、神がお許しくださる範囲でのみ決定権があり、神の主権性を認めることを旨とする信仰です。
考えてもみてください。原罪とはなんでしょう?
エデンの園で「善悪を知る果実」を食べたこと、そのものではないんです。
つまり、神の言いつけに背いたことそのものが、罪ではないんです。
だって、あの時「女」が「ごめんなさい。お言いつけに背いて食べてしまいました。」と
悔い改めていたら、「二人」は楽園を追放されることもなかったんです。
罪は、この行為の結果起きたことです。
では何が起きたのでしょう?
・・・「善悪を定める基準を自分においた」
これが原罪です。
つまり、善悪を定める基準が人間にあるのが人類初の「罪」であるわけだから、
ヘレニズムとヘブライズムは、真っ向から衝突するわけなんです。
棟方玲宇作「神様に従ったヨセフさん」よりヨセフの姿

ハヌカに思うメシアの民 1

今でしょ?

そう、今の時期がユダヤのカレンダーにおける、ハヌカの祭
そして、ハヌカの時 忘れてはいけないのは、これこそが、受胎告知の時期なのです。
ルカ1章26節から描かれている 天使ガブリエルとマリアとのやりとりは
ハヌカの時期に行われました。

私たち親子に示された、ハヌカの時期はまだ先です。
私たちは太陽や月などの惑星が、時期や季節を測るために、神がお与えくださったものという聖書の記述に従い、祭と安息日の時を調べ、守っています。
おそらく、間もなく主は再臨なさるので、この時に合わせて私たちに空の星々を正確に測るだけでなく、近くでその姿を見る技術をお与えくださいました。この賜物を無視するのは、「的外れ」です。

しかし、この時期を「良い機会」として受け取って、ハヌカについて瞑想してみたいと思います。

どんなお祭?

「ハヌカ」とヘブライ語で呼ばれるこのお祭には、様々な名前があります。
「光の祭典」ともユダヤの人は呼び、この時期にだけ用いられる、9本のキャンドルをともす燭台の光でお祝いしています。
しかし、このお祭を最も表している名前は「宮きよめ祭」という名前だと思います。
実は、救い主イホシュアも、この宮きよめ祭を守っていたということが、はっきり、ヨハネの福音書に書かれています。

ヨハネ10:22-23
22-23 時は冬でした。宮きよめの祭りがあり、イエスもエルサレムにおられました。ちょうど、宮の中のソロモンの廊と呼ばれる所を歩いておられると、 
新共同訳聖書では「神殿奉献記念祭」 と訳されています。
つまり「宮きよめ」とは「神殿奉献記念祭」のことで、
神殿を奉献・・・神にお捧げするお祭なのです。

ハヌカに思うメシアの民 2