2020年1月11日土曜日

悪魔は招かれない家には入れない。

正直に告白します。
私は「ドラキュラ」が好きです。
コッポラ監督の「ドラキュラ」では、ドラキュラの孤独で切ない愛に、愛おしさを感じました。両親、祖父母と・・・不幸な結婚に囲まれた私は、永遠なる男女の愛、時を超えても結ばれたいと願う二人、命がけで妻子を守ろうとする男性・・・そういったものに、憧れていたのです。
キリストと出会ったばかりのとき、こういう「悪魔」を題材とした映画を観るのは罪だと言われました。
でも、それは、彼らがまだ、悪魔の囚われものだったからです。

最近NETFLIXで制作されたドラキュラを見ました。
そこで、私は神がどうして、私にこういう映画を観るようにお導きになったかハッキリと分かりました。
「ヴァン・ヘルシング」という修道女の姿に、真のクリスチャンの姿を見ました。
狼の皮から這い出てきたドラキュラを彼女はあざ笑います。
そして言ったのは「私達は、お前を招き入れない。(You are not welcome!)」
ドラキュラは、ドアは開いているのに、入れないのです。
私がドラキュラ映画を見続けるのは、悪魔に関する象徴を読み取るためです。

悪魔を、角が生え、野獣の下半身を持ち、槍型の先端のついた尻尾を持つ「外敵」と考えてはいけません。
ハ・シャターン「反抗するもの(サタン)」は、「キリストと共にいない己」です。私達が悪霊を招き入れるのです。
悪魔は、悪霊を招き入れ、その器となったサタン、つまり人間なんです。
私達は、だれかに「異言を唱えてもらって」祓ってもらおうなどと思うべきではありません。そんなこと無意味です。
例えば、悪魔となった人間は、私の姿を見て恐れおののくでしょう。いままでに、たくさんいました。どの悪魔もキリストに対して暴言をはいています。悪魔となった人間もそうです。私を指差して「異端者だ」「あの女こそ悪魔だ。その証拠に老いもせず、見かけがいいままだ。」しかし、彼らは単に、私の中から発せられるキリストの光が恐ろしいのです。
私の外見は、たしかに試練として与えられたものですが、私はその試練を完全に乗り越え、ありとあらゆる誘惑に打ち勝ちました。
悪魔は、そういう神の光の中で生きる魂を畏れます。神の光の中にある者は、発光体になります。悪魔はその光を恐れ、近づくことも出来ないのです。
私達は、毅然と叫ばなくてはいけません。「私はキリストの祝宴にあずかる者、お前たちさまよえる者は、荒野に引き返せ、ここには決して入れない。神が造りし魂をここにおいて、立ち去れ!イホシュアの御名、神の聖なる契約を宣言する。」

イホシュアは「主は救われる」という意味です。真実に主に信頼するものは、これを宣言する権限が与えられているのです。