2019年2月6日水曜日

己核の年

己亥年が明けました。
皆さまに祝福とご加護をお祈りいたします。

さて、私は徹底した旧暦主義ですが、
なぜメシアニック信徒である私が旧暦を守るのか・・・
というお話はまたの機会にして、この「己亥」という年に込められた、
神の預言を紐解いてみたいと思います。

己亥

十干においては、土の陰性の年であり、
「つちのと」は「田畑」転じて「あいまいさ」を表します。 
つまり、「己」というこの文字は、「田」を表しているのです。
「山」を表す、「戊(つちのえ)」は、山の形をかたどっていますから、
「おのれ」という文字でもある「己」も「田」の形からきているのです。
 「田」は「おのれ」なのです。
「田」は、「領地」つまり「勝手の及ぶ範囲」です。
まさにこの田畑こそが、法律の必要性を発生させ、
個の集合体を「社会」とならしめる起源となります。 
「思」という字は「田」の下に「心」と書きます。
つまり、「思う」という行為は「勝手」に「心」することです。
「車」という文字は、この「田」の横に車輪がついている乗り物です。
最近の子供たちは、「勝手の及ぶ範囲」から出ないで6年間も過ごして、
いきなり六年目にして、外に出され学校に行くわけですから、
電車のマナーや登下校の路上マナーが果たせないのも無理はありません。
 さて、「自由」という言葉があります。この言葉は、
福沢諭吉によって作られた言葉です。
アメリカに留学した福沢諭吉は「Free will」自由意志という言葉に出会いました。
そして、この言葉に相当する言葉が日本語になかったので、
これに「自らを由(よし)とする」を表す「自由」という言葉をわざわざ作って与えたのです。
 ここで、私たちが気付かなければならないのは「勝手」という言葉は、
すでに当時の日本に存在したということです。
しかし、福沢は「Free will」を「勝手」とは訳しませんでした。
それは、ひたすら、「Free will」と「勝手」はまったく異なるものだったからです。


 森羅万象を司る神は、この「己亥」の年にあって私たち全員に「己を省みよ」と「己省」(自省ならぬ)を促しています。
 
 「自らを由とする」を考えてみます。
「由」という字は「理由」の「由」であり、「発端」「源」という意味です。
よくみれば「田」という字の真ん中の線が外に突き出ています。
田は自分の領域を表します。
「自由」とは「自分の領域範囲を発端として、外の世界に働きかける」という意味なんです。
つまり、この、外にはみ出た線を逆にたどれば、
どこの田から来た線なのかがわかるわけですから、この線の及ぼした結果に対して、
「田」つまり「己」が責任を取るということなんです。
「自由」とは、強い責任意識が伴う言葉です。
 
 「己亥」の「支」である「亥」を見ると、さらに思考が深まります。
「己」については後にまたまとめるとして、十二支の「亥」の象意を考えます。
 十二支が動物とは無関係であることは、日本でもご存知の方はいらっしゃいますが、
十二支に充てられている文字が「欠け文字」であることを知る人があまりにも少なく、
とても残念です。十二支の文字はそれぞれ、なにかの「部首」が欠けているのです。
 例えば、「寅」。これは、もともと「演」という字で、「さんずいへん」が欠けています。
辰は「震」です。では、今年の「亥」は、「核」という字です。
この「核」という字を英語で表すと、「コア」という言葉になります。
エネルギーの源です。
細胞はこの「核」こそ「命の正体」ですし、木の核は、そこからどんどん年輪が広がっていくのです。

 私がそこに見るのは、壮大な神のマンダラです。

 十二支は、「生命」の成り立ちを表しています。
 最初の「子」という文字は、日本にはない字で「慈悲」の「慈」という文字の上部を冠として、
「子」という文字を書きますが、
人の生命に関して言うと、「母親」の胎内で生命が発展していく様子を表しています。
 ひとたびこの世に生まれ出た瞬間から、
 この「子」という文字につく部首が、人の一生で12年ごとに変わっていくものだと、私は考えます。
 そのために敢えて、欠けて伝えられているのだと確信しています。
 母親の胎内から出て、12年間は「仔」です。
「人の子」として基本的な人格形成を行う12年間。
そして、昔は初陣を迎えていた次の一巡たる12年間は
「学」という文字のステージを人は生きるのでしょう。
だから男子は十三参りを行う風習が与えられたではないでしょうか。
新たなサイクルを生きるにあたって、自分を神に奉納する必要性に、
古来の日本人は駆られていたのです。
実は、イスラエルにもそういう習慣があります。それについては、また今度・・・。
 
 「己」という文字は、「田」の真ん中の線だけが文字に関与していません。
「由」という文字は真ん中の線が強調されているのに、
「己」には真ん中の線はまったく登場しないのです。
 この文字をよく見ると、人が跪き、身をかがめて祈っている姿に見えます。
 「礼」という字の原型は「禮」と書きます。
 へんは「しめす - 示(神を表す)」つくりは「ゆたか - 豊(祭壇の上の団子)」です。
この「豊」が省略されているのがいまの「礼」という文字ですが、
これは、「神」に対して、まっすぐに顔を上げ跪いて祈る人の姿です。
豊かさとは、神に対してまっすぐに向かい合うことだという教えです。

 この様子にくらべ、「己」の様子は、
うずくまり、真ん中がなく、なんだか泣いているようにも見えます。
「自己の中心がない」つまり、自己中心的な要素ない「個」の表れなのです。
 「自」というのは、人の鼻を表す文字です。鼻は外にあります。対外的な「個」のことです。
しかし「己」とは、ひたすら自分の領域のなかで、それでも自己中心的な要素を取り払い、
うずくまっている「己」です。
 「己亥」の年というのは即ち・・・、
 「自己中心的な要素のない個の核」が成る年なのです。

 「万人、跪いて悔い改め、自己中心な行いのすべてを捨て去り、
           個の核たる真理に目を向けるようにせよ。」

そのように森羅万象を司る神が仰せなのだと、信じて受け止めております。

 漢字は、ホログラムです。
創造主たる神が、ご自身を証明するために、この漢字を通して預言しておられるのです。
(ちなみに「予言」と「預言」はちがいます。)
陰陽五行は陳腐な占いの道具ではありません。宇宙科学です。 
聖書に著されている「神」が生きて、この極東の地を創り出し、司り、
そして今もなお、支配しておられます。
 そして、その神は、「キリスト教」なる宗教では到底表わされていないと同時に、
ほぼ「キリスト教」という宗教とは無関係であると宣言します。
キリスト教は、キリストとはまったく無関係な人間によって人間哲学を基に作られました。
それなのに「キリスト」を名を担ぎ、キリストの名をゆがめ、今でもキリストを辱めています。
みなさんが「教会」と呼ぶもの・・・組織、人の集まり・・・
それらは二千年の時を超えて行われている詐欺であり、
キリストの体たる「エクレシア(信徒のあつまり)」ではありません。
現に、キリストは天国への門を「狭き門」と呼びました。
14万人しか救われないはずなんです。
でも、現代のキリスト教という宗教を見てみてください。
広すぎる門ですし、14万人の1000倍はいるでしょう。「キリスト教徒」って・・・。

 私はありとあらゆる「宗教」を拒みます。
 それが神のご命令だからです。聖書にそう書かれていますもの・・・。

 私の「核」は神たるキリストです。
 そしてキリストの名は「イホシュア」です。
インマヌエル、神が生きて
私たちと共にあります。
うずくまる私とともに、イホシュアは在ります。