2018年12月2日日曜日

ハヌカに思うメシアの民 3

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エピファネスの「神殿汚し」

ざっと、まとめると7つの「神殿汚し」行為です

  1. 安息日を汚す
  2. 主の例祭と聖なる日を汚す
  3. ギリシャの偶像(ゼウス)を祭壇において拝ませた
  4. 祭壇に豚の血をささげた
  5. 聖書で禁じている不浄な食べ物を食べさせた。
  6. 割礼を汚した。
  7. トーラー(律法)の学びを禁じた

今もなお・・・

さて、エピファネスの暴挙は過去の話なのでしょうか?
いいえ。
実は、今もなお、この七つの汚れは「神殿」で起こっています。
汚すとは、ヘレニズム的基準で判断して(自分たちで決められる)
それが価値のないものであるかのように、扱う
あるいは、別の意味を持たせることです。
聖書の歴史はらせん状に連なり、繰り返されるのです。

1.安息日を汚す
 キリスト教会で安息日を守っているところは、ほとんどありません。
 太陽を崇める異教の皇帝が定めた日曜日(太陽の曜日)を「安息日」と呼んで
 礼拝しています。
2.主の例祭と聖なる日を汚す
 主の例祭のほとんどが汚されています。
  スッコート(仮庵の祭)は、本当のクリスマスです。
  しかし、キリスト教会では無視されています。
  ペサハ(過ぎ越しの祭)は、復活祭です。
  確かに主の復活を祝うのは良いことですし、それを復活祭と呼ぶのは
  メシアの民として道理だと思います。
  しかし、ほとんどの教会がこの祭を「イースター」と呼びます。
  これも、太陽の神を崇める異教の皇帝が勝手に決めたルールに
  1700年もたった今でも従い続けているのです。
3.ギリシャの偶像を祭壇に置いて拝ませる
 実際に「ゼウス」の偶像が祭壇という物理的調度品に
 飾られているというのもあります。
 ああ、「カトリックの十字架のイエス像か」と思い、
 自分はプロテスタントだから大丈夫とも、思うかもしれませんね。
 祭壇とは、神とのコミュニケーションスペースです。
 そのうえに「ゼウス」を飾っているのは、プロテスタントも同じです。
 神は日本人にこのことを証しする役目をお与えになっています。
 日本のキリスト教はバスク人(スペイン人)宣教師フランシスコ・ザビエルによって
 1549年に伝えられた異国の宗教とされています。
 (実際には違います。)
 救い主の名前は、イホシュアなのに、イェスーに変えられました。
 ローマに伝わったこの呪われし名前は
 スペイン語でゼスーと発音されます。
 もうお分かりですね。
 日本人なら、16世紀の日本人がキリストを「ゼウス様」と呼んでいたことを
 知っているはずです。
 細川ガラシャもゼウス様と呼んでいました。
 「キリスト・ゼウス」という記述は、紙としてたくさん残っています。
 イエス・キリストとは、救い主イホシュア・ハマシアハを汚す偶像であり
 今でもエピファネスがしたことが繰り返されているということなのです。
4.祭壇に豚の血をささげる
 本来ささげられるべき血は、子羊の血です。
 子羊はイホシュア・ハマシアハです。
 豚とは、異教の象徴です。
 イエス・キリストという偶像の血によって、キリスト教会は
 聖餐を行い続けています。
5.聖書で禁じられている食べ物を食べさせた
 食べ物とは、御言のことです。
 ほとんどの牧師が平気で「ヘブライ語はわからない」といいます。
 ヘブライ語の背景や意味は全く無視するのに
 必死で英語の聖書や英語の宗教資料を大切にします。
 御言をヘブライ語で読む努力は一切しないのに、
 説教の度に英語ではどう書かれているかを頻繁にチェックします。
6.割礼を汚す
 割礼をさせない・・・ということです。
 必要ない、と教えたり。勝手に自分たちの都合で変えるということです。
 私たちメシアの民には、割礼の代わりに「洗礼」が与えられました。
 しかし、今のキリスト教会を見回せば、ほとんどが「滴礼」です。
 おでこに、チョンとお水を塗ればそれでいいと、自分たちの理屈で決定しています。
 また、洗礼は牧師や神父じゃないとできないという嘘を蔓延させました。
 (聖書にはそんなこと一言も書いていません。)
 聖霊降臨についても過小評価しています。なくっていいものなのです。
 ほとんどの牧師たちが、聖霊の内住をうけていないので、
 必要なもの・・・であると、困るんです。
 
7.トーラーの学びを禁じた
 トーラーとは律法のことです。
 キリストは律法主義者を「災い」と呼び、呪われました。
 しかし、律法については、こうおっしゃいました。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」(マタイ5:17) 

 律法を満たすことは困難ですが、イホシュアのおかげで、
 私たちも聖霊のお導によって、律法の真意を知り、達成を目指すことができるのです。
 しかし、キリスト教会は「安息日を守りなさい」のところで、跪くことに失敗し
 躓いてしまっていますので、「私たちは新約の民だから、律法はどうでもいい。」
 律法が悪いもので、必要のないものであるかのように思わせています。
 安息日の守り方、過ごし方を、
 安息日の主であるイホシュアがはっきりお示しになったのにも関わらず
 安息日を無視して、異教の皇帝のルールにしたがっています。

見事に、7つすべてが今でも起こっていることがこれでわかると思います。
プロテスタントがマカバイ書を排除したのも、無理はありません。
都合が悪いのですから。

ハヌカに思うメシアの民 1
ハヌカに思うメシアの民 2
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