2018年12月20日木曜日

主のお友達になる 1

このカテゴリーでは、わがエクレシアの小さな子供たち向けの礼拝のレジュメをご紹介します。

主のお友達になる 
~ニコデモの物語~

<先週の聖句を暗唱します>

ルカ1:38 Luke1:38
わたしは主のしもべです。おことばどおり、この身がなりますように。
I am the LORD’S servant.  May Your Words be fulfilled to me.

ベレシート ~まずはじめに~


 イホシュア様がこの地上にあられたとき、いっぱい、不思議なことをなさいました。
 - 病気の人を治したり
 - 死んだ人をよみがえらせたり
 - お水をワインに変えたり
 こんなにもたくさんの「不思議」を見て、たくさんの人がイホシュア様のファンになって
 「私も治してください!」
 「もっと見せてください!」と・・・
 お願い事や、なんかすごいことを見たい気持ちを、心に持ってイホシュア様を追いかけまわしていたんだね・・・イホシュア様は「スーパースター」だったんだよ。
 その人たちの中で本当にイホシュア様を信じていた人はとても少なくて、イホシュア様の本当の「お友達」になった人はもっと少ないのです。
 ペテロやヨハネなどのお弟子さんたちは、もちろんイホシュア様のお友達だよ。
 今日の安息日礼拝から二回の安息日において、その「イホシュア様のお友達」の中で、ニコデモさんという男の人について、光の子供たちはお勉強しましょう。

ヨム・アレフ 第一日目

<心を合わせてお祈りします>

 見えないところで、僕たち、わたしたちを愛して見守ってくださる
 やさしいアバ
 あなたはみんなの、お父様です。
 お誕生日のたびに、大きくなる子供たちですが、
 そのたびに聖霊様が私たちの心に触ってくださって
 賢く、優しく育ててくださいますから
 感謝します。
 すべてのものを、創造された、素晴らしい神様
 強くて、なんでもできる神様・・・
 そんなあなたの「お友達」に、こんな小さな僕たち、わたしたちがなれるのでしょうか?
 まだ小さくてそのことがよくわかりませんが
 あなたの前で、ちゃんとお座りしてお話を聞けるように
 そして、あなたのことがよくわかるように
 聖霊様助けてください。
 イホシュア様のお名前によって、お祈りいたします。

1.ニコデモさん、イホシュア様に会いに行く。


聖書箇所 ヨハネ3:1~15
(「1年をとおしてよむ せいしょ 」350ページ)
 ある、夜のことです・・・
 ニコデモという男の人がイホシュア様を訪ねてきました。
 イホシュア様がなさるたくさんの奇跡のことを知っていたので
 イホシュア様が神のもとから来られた『先生』であると思ったのです。
 ニコデモはイホシュア様に言いました。
 「神様が共にいらっしゃらなかったら、あなたがなさるようなことは
 できるわけがないからです。」
 ニコデモさんは、こっそりと、『先生』であるイホシュア様に
 教えてもらいに来たのです。
 ところがイホシュア様はおっしゃいました。
 「人は、新しく生まれ変わらなかったら、神様の国をみることはできないのですよ。」
 ニコデモさんは、びっくりして言いました。
 「私は、もう年を取っています。どうやってお母さんのお腹にもどって
 赤ちゃんとして生まれてくることができましょう?」
 イホシュア様はそれでもやはり、こうおっしゃいました。
 「人は誰でも、水と霊によって生まれ変わらなければ神の国に入ることはできない。」
 ニコデモさんはやっぱり、わかりません。
 神様の国に入るには
 たくさん献金するとか、お勉強をいっぱいするとか、断食をする・・・とか
 そういう方法を教えてもらえると思ったのに、
 「水と霊で生まれ変わる」としか教えてくれません。
 「私がこの地上でたくさんの奇跡を行って、
 あなたたち人間のことを教えているのに、
 あなたたちはそれでも、信じません。
 私は天の御国から来たので、御国を見て知っています。
 だから、見たこと、知っていることを話しているのに
 やはりあなたたちは信じません。
 地上のことを語っても信じない人たちに、
 あなたたちが知ることもできない、天上のことを語ったところで
 やはり、あなたたちは信じないのです。」
 イホシュア様は、ニコデモさんにさらに言います。
 「モーセが荒野にいたときに、青銅の蛇を掲げて
 イスラエルの人々が神の力を信じたように
 人の子も掲げられなくては、いけないのです。」

2.ニコデモさんってどんな人?

 ヨハネの福音書3章の1節に、こう書いてあるよ、
さて、ファリサイ派に属するニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。

 そして、4節には
年を取った者が、どうして生まれ変わることができましょう。

 ニコデモさんは、エリート中のエリートで、えらい議員さんなんですね。
 そして、年をとったおじいさんでもあります。

3.夜の訪問の意味

 どうして、ニコデモさんは夜にイホシュア様を訪問したのでしょう?
 おじいさんだから、夜よりも昼間歩いたほうがいいよね。
 昔昔だから、町の電気もなくて、夜は本当に真っ暗です。
 ニコデモさんは、えらい議員さんで、エリートの先生だから、夜だったんです。
 イホシュア様が奇跡を起こすのを見て
 神様が共におられるお方だと信じていたから会いにいき
 御国のことを教えてもらいたかったのだけど
 人に見られるのが恥ずかしかったんだね。

4.「しもべ」と「ともだち」の違い

 みんな、先週の聖句で、マリアさんの姿を通して、私たちみんなが
 神様の「しもべ」なんだってことを、告白したよね。
 私たちはみんな、神様の御心に従うしもべなんだよ。
 じゃあ、「しもべ」ってなんだろう・・・・

 「しもべ」とは
 「しもべ」は英語でServant だよ。
 Servantは「サービス」Serviceをするという人ということ。
 
  1. どれだけ働くかが一番のポイント(「働き」が重視される)Servants are demanded to serve.
  2. ご主人様に対して口答えをせず、なんでも言うことを聞く。(「忠実さ」の要求)Servants are requested to be royal.

 「ともだち」とは
 「ともだち」は英語でFriend だね。
  1. 一緒にいようとすることが一番のポイント(「関わり」が重視される)Friends care about each other.
  2. 仲良しでいたいと思う。(「親しさ」の要求) Friends need to be good for each other.
  
 むかし、RMのお友達で、こんな子がいたよ。その子を仮に、K君としよう。
 ある日、RMともう一人のお友達が、K君といっしょに帰ってきたんだけど、
 手に雑草を握って帰ってきました。
 どうして、雑草を握っているのか聞いてみたら、
 K君が「雑草もたないと、お友達やめるから。俺のお友達でいたかったら雑草を持て」
 と言ってきたのです。
 二人はしぶしぶ、雑草を握りしめて帰ってきました。
 数日後、RMのけたたましい鳴き声が近所に響いて、驚いて見に行くと、
 K君が同じ理由で、耳の中に雑草を突っ込むように指示してきたそうです。
 「俺も一度したけど、気持ちよかったから、やれ」とその子は命じてきたそうです。
 RMは耳の雑草がとれなくなり、痛みで泣いていたんだね。
 結局、耳鼻科に駆け込んで、取ってもらったけど、鼓膜が破れていたら、
 大変なことになっていたよ。

 さて、これはお友達だろうか?
 ちがうよね、K君はRMに「しもべ」であることを要求してきたんだね。
 このことは、みんなよく覚えてほしいことなんだけど、
 君たちを「しもべ」にできるのは、天の神様ただお一方だけだよ。
 それ以外、誰一人として、君たちを「しもべ」にはできないんだよ。
 どうして、天の神様なら君たちを「しもべ」にできるか・・・それは、神様がなんでもできるお力をもっていらっしゃりながら、君たちのことをとても、とても愛してくださっているからなんだよ。その証拠に、十字架にかかって死んでくださったでしょ?
 K君はRMのために、死んでくれるかな?

お友達は・・・
①相手を自分の思い通りにしようとはしない。~~~相手のしたいことや気持ちを大切にして、いつもそのことを考えるよ。
②お互いに、お互いが「どうやったら喜ぶかな・・・」と思いながらいっしょに遊ぶよ。

 英語で書いたところをもう一度見てごらん、”each other”って書いてあるでしょう?
 お互いに・・・っていう意味だよ。
 おともだち、って、一人がいいことをしたら、もう一人も相手のためにいいことをしてあげるってことなんだね。

さぁ、では来週は、ニコデモさんとイホシュア様がお友達になったか、その方法を学んでいくよ。

<心を合わせてお祈りします>


大好きなアバ。天で僕たち私たちのことを、今日のこの学びの間も
休むことなく見てくださっていることを
感謝します。
今、お友達のことを思います。
いつも、当たり前のようにいっしょに遊んだりしていますが、
時々、自分のしたいこと、言いたいことだけを大切にしてしまって
お友達のことを考えないでいることがあります。
悔い改めます。
お友達が喜んでくれることを、喜べるそんな子供にしてください。
イホシュア様のお名前によって祈ります。


<今週と来週の聖句>

ヨハネ3:16
神はそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。ひとり子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
John 3:16

For God so loved the world that he gave his one and only Son, that whoever believes in him shall not perish but have eternal life.

2018年12月6日木曜日

行く先の国々においても名を汚す奴ら

エゼキエル36:19~20

ステップ1
 主の民を諸国の民の間に散らし
ステップ2
 彼らの行いとわざとに応じて裁いた。
ステップ3
 彼らはその行く先の国々においても、私の聖なる名を汚した。

現実として、イスラエルの民で会った私たちも、散らされ
裁かれ
この国で神を「ゼウス」と呼び、汚した

ただ、裁きが先だった・・・ということだ。
私たちは裁かれて、真理が分からなくさせられた。
実は、セムの直系であり、真実のイスラエル民族だった私たちが
自分たちの身分を忘れて、獣たちと同じようになってしまった。
言葉も忘れて・・・

2018年12月5日水曜日

Replacement theology

I believe in Jerusalem.  Whether the current Jerusalem or any other new location... I believe that Jerusalem shall be recovered physically.

I also believe that the Truth effects in spiral way.  Elohim Reveals Himself through out the history.  And the world history continues and repeat in spiral way.
From a small circle to big one....

We should not stay in replacement theology.   And yet there is some truth in  the replacement theology.

Take the example of Exodus.
Myself soul ("0" Ain, the first temple) get set free from the slavery, myself heart ("00" Ain Soph, the second temple) get set free from the slavery, then myself body ("000" Ain Soph Aur) the third temple get set free from the slavery).

After that my household (0,000 the first temple)→My community (00,000) the second temple)→My town (000,000 the third temple)

I realized this studding Sephirothic  Tree (Kabbalah)

2018年12月2日日曜日

ハヌカに思うメシアの民 4 最終回

宮を清める

前回までの記事
「宮を汚す」というのがどういうことなのかを書きました。
今回はいよいよ、「宮を清める」というのがどういうことなのか
書きたいと思います。

イホシュアの宮きよめ

救い主イホシュア(イエス・キリストの本名)の「宮きよめ」と呼ばれる
ところがあります。
マタイ21:12~13に書かれているエピソードです。
これは、ハヌカの時期ではありません。
しかし、このエピソードを人々は特に「宮きよめ」と呼んでいます。
そこに描かれているイホシュアの姿は、柔和とは程遠く
怒り狂いながら、ムチをふるい
神殿に建てられたくだらない屋台(生贄用の動物を売っていた)や
両替商をひっくり返し、憤怒をあらわにしています。
マカバイも同じでした。
憤怒とともに、剣をふるい徹底して、エピファネスが汚したものを、破壊し
「神殿」にふさわしくないものを排除したのです。

神殿とは

宗教というものに対し、罪に対し、
徹底して断固たる態度をとった、イホシュアとマカバイ。
しかし、これは、例えば、仏像を破壊せよとか、仏壇を捨てろ、という意味ではありません。
イホシュアは人としては「ユダヤ教徒」でした。
彼が破壊したのは、しかしながら、ユダヤ教という宗教活動の「実情」だったのです。
この破壊が象徴するのは、キリスト教を含むあらゆる宗教活動の排除です。
しかも、物理的な破壊行為を促しているのではありません。
前の記事でも述べましたが、聖書において
歴史はらせん状に関連しながら連続していくのです。
「神殿」とは、私たち、神の民個人のことです。
私たちの魂こそが、まず神の第一神殿であり、
私たちの心こそが、第二神殿
そして、私たちの体が第三神殿です。
このことと黙示録との関係についてはいずれまた書きましょう。

神が「神殿」を受け取られるということ・・・

しかし、ハヌカとは、神殿の中にあるあらゆる「偶像」「宗教性」そして
罪に対して、憤怒で対処し、破壊しそうやって清められた「神殿」を
もう一度、神にお捧げする、そんな祭です。
このクリスチャンのヘレニズムによって、勝手に「無価値」とされたハヌカの時
神は現代に生きる私たちに課題を投げかけているのです。
私たちに、ハヌカは必要ないですか?
いいえ、神が直接お命じになっていないにしても、ハヌカの祭に託された預言は
生きています。
私たちは私たちという「神殿」を清めて、神にささげなくてはなりません。
神は、必ず受け取ってくださいます。
そうした神殿こそが、御国の基礎なんです。
ささげられた神殿を神は豊かに用いて下さり
私たちを通してご栄光を示してくださるのです。

ハヌカに思うメシアの民 3



ハヌカに思うメシアの民 3

前の記事 ハヌカに思うメシアの民 2

エピファネスの「神殿汚し」

ざっと、まとめると7つの「神殿汚し」行為です

  1. 安息日を汚す
  2. 主の例祭と聖なる日を汚す
  3. ギリシャの偶像(ゼウス)を祭壇において拝ませた
  4. 祭壇に豚の血をささげた
  5. 聖書で禁じている不浄な食べ物を食べさせた。
  6. 割礼を汚した。
  7. トーラー(律法)の学びを禁じた

今もなお・・・

さて、エピファネスの暴挙は過去の話なのでしょうか?
いいえ。
実は、今もなお、この七つの汚れは「神殿」で起こっています。
汚すとは、ヘレニズム的基準で判断して(自分たちで決められる)
それが価値のないものであるかのように、扱う
あるいは、別の意味を持たせることです。
聖書の歴史はらせん状に連なり、繰り返されるのです。

1.安息日を汚す
 キリスト教会で安息日を守っているところは、ほとんどありません。
 太陽を崇める異教の皇帝が定めた日曜日(太陽の曜日)を「安息日」と呼んで
 礼拝しています。
2.主の例祭と聖なる日を汚す
 主の例祭のほとんどが汚されています。
  スッコート(仮庵の祭)は、本当のクリスマスです。
  しかし、キリスト教会では無視されています。
  ペサハ(過ぎ越しの祭)は、復活祭です。
  確かに主の復活を祝うのは良いことですし、それを復活祭と呼ぶのは
  メシアの民として道理だと思います。
  しかし、ほとんどの教会がこの祭を「イースター」と呼びます。
  これも、太陽の神を崇める異教の皇帝が勝手に決めたルールに
  1700年もたった今でも従い続けているのです。
3.ギリシャの偶像を祭壇に置いて拝ませる
 実際に「ゼウス」の偶像が祭壇という物理的調度品に
 飾られているというのもあります。
 ああ、「カトリックの十字架のイエス像か」と思い、
 自分はプロテスタントだから大丈夫とも、思うかもしれませんね。
 祭壇とは、神とのコミュニケーションスペースです。
 そのうえに「ゼウス」を飾っているのは、プロテスタントも同じです。
 神は日本人にこのことを証しする役目をお与えになっています。
 日本のキリスト教はバスク人(スペイン人)宣教師フランシスコ・ザビエルによって
 1549年に伝えられた異国の宗教とされています。
 (実際には違います。)
 救い主の名前は、イホシュアなのに、イェスーに変えられました。
 ローマに伝わったこの呪われし名前は
 スペイン語でゼスーと発音されます。
 もうお分かりですね。
 日本人なら、16世紀の日本人がキリストを「ゼウス様」と呼んでいたことを
 知っているはずです。
 細川ガラシャもゼウス様と呼んでいました。
 「キリスト・ゼウス」という記述は、紙としてたくさん残っています。
 イエス・キリストとは、救い主イホシュア・ハマシアハを汚す偶像であり
 今でもエピファネスがしたことが繰り返されているということなのです。
4.祭壇に豚の血をささげる
 本来ささげられるべき血は、子羊の血です。
 子羊はイホシュア・ハマシアハです。
 豚とは、異教の象徴です。
 イエス・キリストという偶像の血によって、キリスト教会は
 聖餐を行い続けています。
5.聖書で禁じられている食べ物を食べさせた
 食べ物とは、御言のことです。
 ほとんどの牧師が平気で「ヘブライ語はわからない」といいます。
 ヘブライ語の背景や意味は全く無視するのに
 必死で英語の聖書や英語の宗教資料を大切にします。
 御言をヘブライ語で読む努力は一切しないのに、
 説教の度に英語ではどう書かれているかを頻繁にチェックします。
6.割礼を汚す
 割礼をさせない・・・ということです。
 必要ない、と教えたり。勝手に自分たちの都合で変えるということです。
 私たちメシアの民には、割礼の代わりに「洗礼」が与えられました。
 しかし、今のキリスト教会を見回せば、ほとんどが「滴礼」です。
 おでこに、チョンとお水を塗ればそれでいいと、自分たちの理屈で決定しています。
 また、洗礼は牧師や神父じゃないとできないという嘘を蔓延させました。
 (聖書にはそんなこと一言も書いていません。)
 聖霊降臨についても過小評価しています。なくっていいものなのです。
 ほとんどの牧師たちが、聖霊の内住をうけていないので、
 必要なもの・・・であると、困るんです。
 
7.トーラーの学びを禁じた
 トーラーとは律法のことです。
 キリストは律法主義者を「災い」と呼び、呪われました。
 しかし、律法については、こうおっしゃいました。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」(マタイ5:17) 

 律法を満たすことは困難ですが、イホシュアのおかげで、
 私たちも聖霊のお導によって、律法の真意を知り、達成を目指すことができるのです。
 しかし、キリスト教会は「安息日を守りなさい」のところで、跪くことに失敗し
 躓いてしまっていますので、「私たちは新約の民だから、律法はどうでもいい。」
 律法が悪いもので、必要のないものであるかのように思わせています。
 安息日の守り方、過ごし方を、
 安息日の主であるイホシュアがはっきりお示しになったのにも関わらず
 安息日を無視して、異教の皇帝のルールにしたがっています。

見事に、7つすべてが今でも起こっていることがこれでわかると思います。
プロテスタントがマカバイ書を排除したのも、無理はありません。
都合が悪いのですから。

ハヌカに思うメシアの民 1
ハヌカに思うメシアの民 2
ハヌカに思うメシアの民 4

ハヌカに思うメシアの民 2

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マカバイ書

ハヌカの起源は聖書の「マカバイ書」に記されています。
実は、このマカバイ書、プロテスタントのクリスチャンはあまり読まないので、ほとんどの訳本で割愛されている文書です。
フランシスコ会訳とバルバロ訳でしか、マカバイ書を含んでいません。
マカバイとは人の名前です。
紀元前169年 セレウコス朝シリアの王アンティオコス4世・エピファネスにエルサレムが占領され、神殿が汚されるという事件が起きます。
この二年後、紀元前167年、ユダ・マカバイが神殿を回復するのですが、この神殿の回復を祝うのが、宮きよめ祭です。

神殿を汚す。神殿を回復する。
それでは、「神殿を汚す」ってどういうことなんでしょう?
また、「神殿を回復する」とは・・・一体なんのことなんでしょうか?
結論から言いますが、ハヌカを無視するなど、もってのほかです!
マカバイ書を読まないで、メシアの民を名乗るなど「おとといきやがれ」です。

まぁ、いいでしょう。

一言でいえば、このマカバイ戦争は
ヘレニズムとヘブライズムの戦争です。

<改めましてヘレニズム>
ヘレニズムとは、ギリシャ主義ということです。
アンティオコス4世はセレウコス朝の子孫です。
つまり、アレクサンダー大王の部下だったセレウコスの子孫でギリシャ人なのです。
ヘレニズムには・・・・
 たくさんの神様がいます。
 神様にそれぞれ担当分野があります。
  豊作の神 太陽の神 海の神
 全知全能の神とされるゼウスはいますが、実は制限付きの全知全能なのです。
 人間は、自分の都合に合わせ、適切なご利益を下さる神様を選び拝めます。
 つまり・・・人間に決定権と選択権があるのです。
 自分の力で何でも決められて
 自分の力で何でも乗り越えられるはず。
 そう信じるのがヘレニズムです。
ちなみに、「エピファネス」とは、現人神(あらひとがみ)という意味です。
神と同じ力を持った人間です。
そういう人間力を重視するのがヘレニズムで(努力すれば、なんでもできる)
神様は人間の願望によって作られた偶像にすぎません。

ちなみに、ドイツの哲学者ルートヴィッヒ・アンドレアス・フォイエルバッハは「そもそも神とは、人間の願望が投影されたもの。映し出されたもの。」だと言います。ちなみに、この「投影物」という考え方はギリシャの哲学者プラトンが言った「イデア論」からくる考え方です。

一方
<ヘブライズムというのは・・・>
かいつまんで言うと、ヘブライ人、つまりユダヤ人の考え方のことです。
 神は唯一無二 ヤッウェの神だけ
 神の全知全能性にまったく制限がない。
 すべてをお造りになった、創造主たる神
 人間は、神の御計画によって動かされている。
 つまり、神に絶対的な決定権があり
 人間は神がいなければ生きていけない弱い存在(バサール)である。
 神の力なしに、人間は何もできない。
 そう考えるのが、ヘブライズムです。
ヘブライズムにおいて、人間はあくまでも、神がお許しくださる範囲でのみ決定権があり、神の主権性を認めることを旨とする信仰です。
考えてもみてください。原罪とはなんでしょう?
エデンの園で「善悪を知る果実」を食べたこと、そのものではないんです。
つまり、神の言いつけに背いたことそのものが、罪ではないんです。
だって、あの時「女」が「ごめんなさい。お言いつけに背いて食べてしまいました。」と
悔い改めていたら、「二人」は楽園を追放されることもなかったんです。
罪は、この行為の結果起きたことです。
では何が起きたのでしょう?
・・・「善悪を定める基準を自分においた」
これが原罪です。
つまり、善悪を定める基準が人間にあるのが人類初の「罪」であるわけだから、
ヘレニズムとヘブライズムは、真っ向から衝突するわけなんです。
棟方玲宇作「神様に従ったヨセフさん」よりヨセフの姿

ハヌカに思うメシアの民 1

今でしょ?

そう、今の時期がユダヤのカレンダーにおける、ハヌカの祭
そして、ハヌカの時 忘れてはいけないのは、これこそが、受胎告知の時期なのです。
ルカ1章26節から描かれている 天使ガブリエルとマリアとのやりとりは
ハヌカの時期に行われました。

私たち親子に示された、ハヌカの時期はまだ先です。
私たちは太陽や月などの惑星が、時期や季節を測るために、神がお与えくださったものという聖書の記述に従い、祭と安息日の時を調べ、守っています。
おそらく、間もなく主は再臨なさるので、この時に合わせて私たちに空の星々を正確に測るだけでなく、近くでその姿を見る技術をお与えくださいました。この賜物を無視するのは、「的外れ」です。

しかし、この時期を「良い機会」として受け取って、ハヌカについて瞑想してみたいと思います。

どんなお祭?

「ハヌカ」とヘブライ語で呼ばれるこのお祭には、様々な名前があります。
「光の祭典」ともユダヤの人は呼び、この時期にだけ用いられる、9本のキャンドルをともす燭台の光でお祝いしています。
しかし、このお祭を最も表している名前は「宮きよめ祭」という名前だと思います。
実は、救い主イホシュアも、この宮きよめ祭を守っていたということが、はっきり、ヨハネの福音書に書かれています。

ヨハネ10:22-23
22-23 時は冬でした。宮きよめの祭りがあり、イエスもエルサレムにおられました。ちょうど、宮の中のソロモンの廊と呼ばれる所を歩いておられると、 
新共同訳聖書では「神殿奉献記念祭」 と訳されています。
つまり「宮きよめ」とは「神殿奉献記念祭」のことで、
神殿を奉献・・・神にお捧げするお祭なのです。

ハヌカに思うメシアの民 2


 

2018年12月1日土曜日

救い主の名前は「イエス」ではない。

私が「イエス・キリスト」という名前を使わなくなった理由
それは、この資料をみたからだ。
これは、紀元後178年、セルサスの命令で集められた異教徒とクリスチャンの討論の様子が記録されている。
“私たちはそうは思わないが、クリスチャン達は彼らの先生(イホシュア)の名前を発音することによって、地球や空気の力に対しても対抗できると考えている。また、クリスチャン達は名前の意味を守るためにとてもうるさい。つまり、クリスチャン達はそれを正確に発音しないのであればそれは、無意味であると述べている。そしてそれは、ギリシャ語でもラテン語でもない。つまり未開の言語で言っているに違いない。
 シリー(クリスチャン)はゼウスの像やアポロの像、またそのほかの像の横に立ってこう叫んだ。「見なさい。私がこれらの像に汚しことを言い、この像を打ったとしても、それは私には何の害ももたらさない。なぜなら、私はクリスチャンだからである。」”
(出典:Celsus on the True Doctrine, A Discourse Against the Christians, R. Joseph Hoffman (page118))
これはローマ人が初代クリスチャンについて、ちょっと馬鹿にした語調で記述したもの。
現在の教会のもとを作ったのは、ミトラ教徒のコンスタンティヌス一世
紀元後325年ごろのこと。
ちなみに、彼がクリスチャンと呼ばれる人々を公認したとき40歳くらいだったが、この20年ほど後に亡くなる直前まで、ミトラ教の最高司祭であり続けた。12/25ミトラ教の冬至を「キリストの降誕祭」にしたのも彼だ。太陽崇拝のミトラ教の礼拝日である「日曜日」をキリスト教の礼拝日にしたのも彼だ。
イエスという名前の元になったのは、ジェスー ラテン語
そのまたもとになったのは、ギリシャ語 YESOUS
みな、本来救い主の名前が「ヨシュア記」のヨシュアと同じであることは知っている。ヘブル語でイホシュア。実は「ホ」の部分は喉の奥のほうで発音するとても難しい発音だ。
みな、イエスが、このイホシュアの翻訳版だと思っている。パオロがわかり安い翻訳したのだろう…と
もしそうなら、イホシュアが亡くなってから、またローマ宣教の立役者であるパオロが亡くなってからも100年も経っているのに、ジェスー、あるいはイエソウスがクリスチャンの間で定着おらず、クリスチャンたちが、公文書で批判されるほどに、救い主の名前にこだわるものだろうか。
イエスが単なるイホシュアの短縮でないし
名前に大きなこだわりがあるユダヤ人だからこそ、許せない何かがあったのではないか
そう思った。
そして私はその答えをタルムードにみつけた。
そして二度と イエス などという名前で
メシアを呼べなくなった

ちなみに、神は聖書の中でいろんな形で預言なさる。
モーセ五書のタイトルは、最初に使われている言葉がタイトルになり
それらを並べると「初めに荒野で名を呼んだのは、ことば」になる。

こういう暗号めいた預言は意外とたくさん聖書にはあるものだ。
私はある夜声を聞いた
「私の名前はイエスなどではない。私の名前を探しなさい。」
そこでなぜか、バビロニア・タルムードを調べるように導かれた。
そしてバビロニア・タルムードに
「Yeshu」イエスという名前が何度か出て来るのを見た。
驚くべき事だった。
タルムードのSanhedrin43a を見た時
私は床に崩れ落ちて、泣きながらメシアにお詫びした。
私達の罪のために十字架にかかって死なれた
恐ろしく不名誉で、孤独な痛みと死を受けられた方に
このような名前をつけて 平然と声高らかに
呼んでいたことを泣きながら悔い改めた。
Sanhedrin 43aには
Yeshuという名前がどういう意味なのかが書いてあった。
聖書にも、実は同じことが書いてある。

この名前は詩篇109 :13 
Yemach Shemo Wezichro
ヘブル語のこの三語の頭文字をあわせると
Yeshw になる 音表的に書くとYeshu イエスだ
詩篇109:13は呪いの言葉
その子孫が断ち切られ、次の世代には彼らの名が消し去れられるように