2019年10月10日木曜日

ヨム・ハキップール:メシアニックの断食

10月8日の17:35~10月9日の17:36
断食をしました。

ヨム・ハキップール

イスラエルはこの日を
「ヨム・ハキップール」と呼びます。
キリスト教という宗教団体でも、これを「大贖罪日」と呼んで
守っているところもあるようです。

この日は、一日自分の行いを自省し、悔い改め
あらゆる虚勢を排除し、罪深い、哀れな姿を
神の前にさらけ出すのです。
旧約聖書のレビ記23章23節~32節には
ヨム・ハキップールについて、このようにあります。
23-24 第七の月の一日(太陽暦では九月十五日)は、すべての民が礼拝に集まる聖なる記念日である。ラッパを高らかに吹き鳴らし、その時を告げなさい。 25 その日は一日、どんな仕事もしてはならない。ただ、火で焼くささげ物を主にささげなさい。
26-27 すべての民の罪を償う日はその九日後、あなたがたは主の前に集まり、めいめいの犯した罪を悔い、火で焼くささげ物をささげなければならない。 28 その日は、どんな仕事もしてはならない。主の前で罪の償いをする特別な日だからだ。 29 その日一日、罪を悔い改めて過ごさないような者はイスラエルから追放され、 30-31 その日に仕事をするような者は死刑に処せられる。これはイスラエルの永遠のおきてである。 32 その日は神聖な安息日だから、謙遜に罪を悔い改めなさい。前日の夕方から、当日の夕方まで丸一日、身を慎んで過ごしなさい。

オラー

「火で焼く」と訳ているところは、
ヘブライ語の「オラー」という言葉
これは、火で焼くというよりも・・・
英語の「Consumed」にあたります。
ボロボロにされる、叩きのめされる、費やされる・・・です。
つまり、これはキリスト
イェホシュア・ハマシアハのことです。
(なんどもしつこいようですが、
キリストの名前は「イエス」などではありません。)

この話はもう少し、詳しく別の機会に話すとして
キリストを信じる、というのは
キリストが私達の罪のために「オラー」となって
拷問の末、死んでくださったことを信じることです。
ですから、クリスチャンは断食をする必要がない。
この一イベントで、すべてが完結し
罪の捧げものはなされたのだから・・・・

この理屈に私は
まったく反対する気はありません。
そのとおりです。

必要ないの?

しかし、私はそれをいうなら、
ありとあらゆる祭りが必要なくなる
ということなんじゃないですか?と
尋ねたくなるのです。
キリスト教の言う「イースター(この言葉には吐き気を禁じえません)」
「クリスマス(このイベントもサイアクに偽善的です)」
これらも必要ないのではありませんか?

覚える

聖餐の儀式をなぜ行うのでしょう?
「記念して覚える」ためです。
キリストが命じたから・・・なのですが
どうしてお命じになったかに思いを馳せるべきです。

人間は弱く、儚いものです。
神の子でも、人の世に在る限り
常に誘惑に囲まれ、不条理に取り囲まれています。
だから「覚える」必要があるのです。

日本人に生まれて、幸せだと思うのは
言葉の中に、神の痕跡を感じるからです。
日本語は神のホログラムです。
日本人は「おぼえる」を「覚える」と書きます。
この字は「覚める(さめる)」という字です。
LearnでもRememberでもなく
「覚える」Enlightened なんです。
日本人は聖書の神
アブラハムの神、ヤコブの神
そして、イホシュアを
「ゼウス様」という外国の宗教の象徴として受け取りました。
フラシスコ・ザビエルがキリスト教を伝来させた時代
人々はキリストを「ゼウス」と呼びました。
今はそのゼウスが「イエス」になっただけです。
みな、アメリカ人を倣えと、いつもアメリカを目指します。
アメリカは「新バビロン」であり「新エルサレム」ではありません。
イザベラの像をあんなにも堂々と大きく、海辺に建ててるでしょう。
わかりそうなものなのですが。
私達日本人は踏みとどまり、立つべきです。

どの次元に生きているのか


キリストに在る者は、すべて神の子です。
人間(キリストを信じない者)は三次元に生きています。
物質主義に生きているという言い方でもいいのですが
宇宙科学的に考えるべきなので、やはり、
線の世界「一次元」、面の世界「二次元」
これらに、高さという概念が加わって立方体の世界「三次元」です。
人間が肉体で感知できるものは、ここまでです。

キリストは言いました。
29 「わたしを見たから信じたのですか。しかし、見なくても信じる者は幸いです。
(ヨハネによる福音書20章29節)
これをキリスト教会という宗教団体では、
ーーー今の世の中を生きる私達は、あくまでも伝聞でしか
キリストを知ることができないけれど
イエス様がこうおっしゃっているので
疑わないで信じるのが良いことなんですよ・・・
とおしえます。

間違えではありません。
私も宗教に所属していたときは、そのように教えられ、
十分に納得しておりました。
しかし、主はもっと深淵なことをおっしゃっているのです。
もし、「聞いて信じる」のが幸いならば、そのようにおっしゃったでしょう。
しかし、主は「見ないで信じる」とおっしゃったのです。
見るというのは、もっとも物質的な感覚です。
三次元感覚の筆頭なのです。
見るという行為に代表される三次元の感覚を、否定し、
そうじゃない感覚で経験して信じるものが幸いだとおっしゃっているんです。

時間を超えて生きる

私達、神の子は「五次元」を生きる生命体です。
科学者は十次元の存在を論証しています。
実は我々アジア人はこのことを、4000年も前から知っていましたが
その話はまた今度。
十次元といっても、一つの次元に「+」と「ー」があると考えれば
五大次元が存在するということになります。

聖霊の内在を受けるものは、
まず四次元「時間」を「+」にも「-」にも
自在に「いきます」
・・・生きるのです。

人は経験の生き物です。
経験することが「活動している」ということなんです。
しかし、聖霊なる神は、ある意味ソフトウェアのように働かれます。
私達の脳に「時間」と「感覚」を解析し
統合して「経験」する能力を与えてくださるのです。
私達神の子はいつでも、「聖霊ソフトウェア」によって
時間を超え、あのエルサレムの丘に立つことができるのです。
風を感じ、人々のざわめきを聞き、
そして、鼻腔にあの強いナルドの香りを感じるのです。
私は毎日のように、あの丘に崩れ落ち
私が殺してしまった、あの方の血塗れの足元で泣き崩れます。

なぜ、断食なのか

祭りを守るのは、覚えるためです。
覚めるためなんです。
過ぎ越しの祭りから初穂の祭り
(キリスト教徒が「イースター」と呼ぶ)(吐)
仮庵の祭り
(キリスト教徒は完全に無視する)(泣)
などなど、様々な祭りがありますが
聖餐を含めて私達が儀式や祭を守らなくてはいけないのは
覚えるために他なりません。

私が、ヨム・ハキップールで断食をするのは
一重に
生命維持の保証をすべて神に委ねることを覚えるためです。
私は、キリストが私の時間軸のなかで
死んでくださるまでは
罪にまみれそれゆえに
「死んでいく」存在だったのです。
しかし、今は「生きていっている」のです。
覚えるが故に「生き続ける」のです。
キリストこそが私の生命です。

僕らはみんな生きている

お昼ごはんを遅めに大量に食べたつもりでしたが
21:00ごろになると
空腹で苦しくなります。
すると、私は告白します。
「私を生かしてくださるのは、あなたの御言のみです。
私はキリストによって生きます。」
別にそれで楽になるのではありません。
でも、ウキウキになるんです。
苦しみがどうでも良くなるんです。
なぜって、面白すぎるからです。
バスケの教室から帰って遅めに寝ることになった息子が
お風呂に入っていました。
気持ちよさそうに、シャワーを浴びながら
「ぼ~くらはみんな~生きている~🎶」
(神は幼子の口に讃美をのせられる)
熱唱です。
よく奇跡派が「イエスの名において祈れば
痛みと苦しみが消えてなくなる!」と言いますが
なくなったら、結局
三次元、つまり肉体的な喜びでしかないのです。
そうではなくて、神は苦しみを上回る愛と喜びを
惜しみなく、シャワーのように、ザーザーと
降らせてくださるのです。
悪魔の誘惑に乗ってはいけません。

神は父親です。
ヘブライ語で父親は「アバ」です。
アバは、自分がいないと生きていけないとすがる
我が子を決して見捨てません。
人間ですらそうなんです。
いわんや、神をや。

二日目の夜 私は断食(Fast)を終えました。
さぁ、Breakfastです。
軽くスープを飲むことにしました。
そこへ
息子がご近所さんに夕食をお呼ばれし
そこで作ったたこ焼きを大量に持って帰ってくれました。
「ソース」もたっぷりかけて!
ソース Sauce ですが 私にとっては Sours です
アルファからオメガ・・・です。
そして、めちゃくちゃ美味しかったんです。
数にして24個のたこ焼き
ぺろりと頂きました。
キリストも食いしん坊なので、私といっしょに
うまいうまい!と息子を祝福しながら
召し上がられます。

断食をすると、食べ物がキラキラして
神様がこの世にこんなにも美味しいものを
大量に用意してくださったことを
まさに、覚えさせられるのです。
文字通り「有り難い」のです。

やっぱり宗教はいらない

断食はあくまでも
私と神の個人的な関係のなかで導き出された
一つの讃美と礼拝の方法です。
メシアニックならば、(あるいは)
神を信じるならば
ヨム・ハキップールに断食をするべきだ!
と言っているのではありません。
そうなると、宗教になるので。
私達はあらゆる宗教と戦い、排除するべきなのであって
宗教を新たに作るべきではありません。
人それぞれで良いと思います。
しかし、祭を守るという中で
覚える機会を、喜んで選択することは
大切なことだと信じます。
喜ばないなら、一切するべきではありません。

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